「私は何者なんだろう?」と夜中に考えてしまった話

昨夜、なかなか眠れなくて。

 

理由ははっきりしていて、「私は一体、何者なんだろう?」「何のために、今ここに生きているんだろう?」

そんな問いが、ふと心の中に浮かんできたからです。

 


実は今日から、あるボランティア活動が始まります。
でもこれは、私が自ら望んで選んだものではなく、くじ引きのような流れで引き受けることになった役割です。

正直に言えば、「やりたい!」と思って始めたわけではない活動に、長期間拘束されることに対して、プレッシャーや重たさを感じています。

 

「やります」と言った手前、自分の一存で断ることもできず、「きちんとやらないといけない」という責任感にぐっと押しつぶされそうになってる。

 

でも、これは「振り子」にやられているだけなのかもしれない。


「嫌だ嫌だ」という気持ちはくじを引いたときにしっかり味わったからこそ、

今はそこを越えて、できるだけフラットな気持ちでこの役割に向き合いたいとも思っている。

 

だけど、こんなことを感じてしまう背景には
やっぱり「私は何者でもない」という思いがあるのかもしれません。

 

名刺を差し出し「私は◯◯の専門家です」と言えるような、明確な肩書きもない。

今は体にも少し不安があり、本当に役に立てるのかさえ分からない。
正直「めんどくさいなぁ」という思いもある。

 

そんな中で、「私は一体、何者なんだろう?」という問いに向き合っていたら、ある言葉が目に入りました。

 

「あなたは、自分のことをどんな存在だと思っていますか?」
「では、どんな存在だと思われていたら嬉しいですか?」

 

考えてみると、私が一番嬉しいのは、「役に立つ人」だと思われることかもしれません。

できれば、「仕事のできる人」「きちんとした人」

そんなふうに思われたい。

現実的すぎるかもしれないけれど、それが今の正直な気持ち。

そして、せっかく引き受けた役割なら、ちゃんと役に立つ仕事をしたいとも思っています。
…なんだか、エゴの塊ですよね。


いつも「気づきの中心点にいよう」なんて言っている私が、実はこんなふうに思ってしまっているなんて。

 

だけど、ふと思ったんです。
源(ソース)の視点から見れば、「できる」と「できない」も、「ある」と「ない」も、どちらも同時に存在しています。

失敗しても、うまくできなくても、そもそも「それはそれでいい」のかもしれない。

これは「タフティ」のまだ起こっていない出来事もアドバンテージにしてしまうレッスンですね。

 

だったら、「どうせやるなら、大きな愛をもってみんなに楽しんでもらえるような存在でいよう」と思おう。

うまくやろうとすると視点が狭くなりがちだけど、ただそこに「大きな愛を持って在る」ことを意識してみますね。


それだけで、きっと現実は変わってくるんじゃないかと。

はい、実験してきます!!

 

「こうなりたい」と思った時点で、その要素はもう自分の中にあるんですよね。

「私はなっていない」と思っているのは、ただの思い込みで、実はもう、ちゃんと持っている。
だから、それを持っている前提で生きていく。
つまり、ふりをしてみるということ。

 

それが、意図を持って生きるってことなんだなと、少しわかってきました。

 

ここまで考えがまとまってもなお「上手にできるかな」なんて思ってるわ笑