久しぶりに『タフティ・ザ・プリーステス』を開きました。
3回目の読み直しに入っていて、今回は「気づきの中心点」という言葉が、すっと胸に入ってきたのです。
タフティによれば、「眠りに落ちている状態」とは、自分の意識が
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内部のスクリーン(思考)か
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外部のスクリーン(周囲の状況)
のいずれかに偏っている状態のこと。
たしかに私は、日常の中でよく頭の中のおしゃべり(あれこれ考えること)に夢中になったり、
逆に、目の前の出来事や人の反応に気持ちが持っていかれてしまったりします。
そういうときは、自分で自分をコントロールできていない感覚があります。
「気づきの中心点」に意識を置くとは、
思考と現実のちょうど中間に自分の意識をとどめること。
すると、自分の考えと、まわりの現実世界とを同時に認識できるようになるのだそうです。
実際、試してみました。
自分に「今、私はどこに意識を置いている?」と問いかけながら、
買い物に出かけたり、家事をしたりしてみたんです。
すると、ふだんとは少し違う感覚がありました。
頭の中のモヤモヤや予測(あるいは妄想)から一歩引いて、
今この瞬間に「自分がいる」と感じられる時間が、ところどころにあります。
『タフティ』には、「目覚めていない状態の行動は5〜10%の有効性しかない」とありましたが、
たしかにぼんやりと自動的に動いているときって、「流されている」感覚があります。
そして、そんな日々の延長に現実がつくられていくのだとしたら……
やっぱり意識を戻すことって、大切なんですね。
タフティは「これはほんの始まりにすぎません」とも言います。
それを読んだとき、なんだか心がふわっと明るくなりました。
これからも、折にふれて「私は今、どこに意識を置いている?」と自分に問いかけてみようと思います。
それが、「目覚めて生きる」ということの第一歩なのかもしれません。
ふと思い出したのですが、
禅の教えの中に、こんな言葉があります。
「心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず」
これは、「心が“今ここ”になければ、
目で見ていても本当に見ることはできず、
耳で聞いていても本当に聞くことはできない」
という意味です。
まさに今日の「気づきの中心点」と同じようなことを、
何百年も前から、禅では語られていたのだな…と感じました。
私もつい、目の前の現実を「見ているようで見ていない」ことが多かったかもしれません。
これからは少しずつ、「今ここ」に戻る練習を続けていきたいです。
しばらくこのタフティからの学びを記していきたいと思います。