トランサーフィン17日目 「罪悪感」と最高のゴール

私たちは子供の頃から悪いことをしたら、必ず罰せられると刷り込まれてますね。

しかし本には『あなたの人生を台無しにしてしまうので、少しでも罪の意識に気づいたら、すぐにそのゴミを捨ててください。』と書かれています。


どういうことでしょうか?
“罪の意識がなければ罰は無しです。”

とは?

 


そんな恐ろしい!どんな悪人も、罪の意識がなければ罰せられないってこと?

 


いえいえ、そうではありません。それはあくまでも外側で起こっていること。ここで言う罰は“外的な裁き”ではなく、自分の内側で起きることの話です。


「罪悪感がどうしても拭えないなら、まずは自分を正当化することをやめる」

と書かれていますが、何でも比べたがる私としては正しいことと正しくないことを比べないの意味なのではと理解しました。

 


誰に対しても正しさでジャッジしなければ罪悪感は存在しなくなる。

 

 

仏教の唯識思想(ゆいしきしそう)とは

外の世界に実体はなく、すべては心の働きによって現れているという思想です。

外界があるように見えるのは、心がそう認識しているからにすぎない。
世界は客観的に“ある”のではなく、主観的な認識の中にある。

つまり、「人間は、世界そのものではなく、“自分の心が映し出した世界”を見ている」とする考え方。

 


だからこそ、罪悪感というのも“心が作り出した映像”にすぎないのでは?

今日の【罪悪感】もそれに含まれているようです。

 

 

 

 


今日も私の実践編です。


ものすごく丁寧にやってきた企画があるんです。なので、私は人間関係も潤滑に行くように努力をしてきました。ところが外部から形を変えた方がうまくいくのではないかと話が上がって。今このタイミングでそれを言うのはやめて欲しい泣。

昨夜はなかなか寝付けませんでした。

 


登場人物は全て善意の人たち。

私は私の想像できる最高のゴールを設定する!

 


ただ…最高のゴールを頭の中で考えてぐるぐるして、力技で着地をさせるのは違う気がするんですよね。それは過剰ポテンシャル発動しそう。

 


上からすとんと落ちてくる感覚を信じたい!

というわけで今日も整えています。

トランサーフィン16日目『信念』と母との関係


今日は“信念”がテーマです。でもトランサーフィンにおける信念は、一般的な『強く信じる』とは少し違うようです。

 

「ある信念に従えばその信念は腹落ちする。」と言う文章から始まるのですが、

これは、“トランサーフィンが機能することがわかれば、それを信じる必要すらない。”と言うことのようです。


【私は願わず信じず期待しない。私は意図する。そしてそれは叶うと知っている。】


「意図でゴール」に何の疑問もいらないということですよね。これを“信念”と呼んでいいのかは正直…

でも、これで創造の力を自由に使える状態というわけです。


仏教が説く「無執着」は、願いや期待すら手放し、“空”にとどまることが究極のゴール。

一方、トランサーフィンは「意図する=行動を含んだ創造の力」として、それを積極的に使う。

 

トランサーフィンの教えは、“願わず信じず期待しない”ただ手放すのではなく、ちゃっかり意図だけを静かに発動する。

仏教が「無為自然」によって悟りへ向かうのに対して、トランサーフィンは「期待せず+意図する」によって、望む現実を創造する。

 

トランサーフィンを利用して願望実現と言う意味では、16日目で、かなり本質なところに来ているのでは?

 

 

 

 


さて、私実はものすごい振り子にやられていました。

実母との大喧嘩。

母はもともと思い込みが激しい人だったのですが、高齢になってさらに過激に私の地雷を踏み抜いてくれました。

 


私が長年悩んでいることをいとも簡単に上から目線でアドバイス

彼女に何か知識があるわけでも、経験があるわけでもなく、私としては具体的に相談することはなかったのですが、「新聞で読んだ」というリソースで諭してきたのです。母なりに私を心配してのことだというのはわかっています。

 


簡単に受け流すことができず、完全に振り子にやられた私は、頭に血が上り憤り反論しました。が、かと言って彼女が何か打ちのめされるわけでもなく(なにしろ新聞で読んだことがすべての知識でそれが正義なので泣)

 

私はその後も気持ちが立て直せずに過ごす羽目になりました。

まともに取り合わなければ良かったのですが、

母娘って面倒ですね。

 


呼吸に意識をした瞑想をしたり、お香焚いて、掃除もしてYouTubeで大祓祝詞まで流しましたよ笑。

やっと今気づきの中心点に戻ってくることができました。

 


そんな私が今日、何度も、目に耳に入って来た言葉は、

“今までの延長線上で物事を考えるというのが既におかしなことで、現在は現在でしかないと言うことに気づきなさい”

でした。

 


今の私は今でしかなく、私が地雷だと思っていることすら、今の私には関係のないことだと気づきました。

 


母についても、今の私に必要な存在であれば良き存在として、今の私と距離があってもいいのならば自然と離れるということもあるのでしょう。

そのやり方はやはり【感謝】しかないのだろうと直感的にわかります。

 


今日のレッスンを生かすとするならば、

このまま母といがみあうつもりは全くないので、「良好な関係で距離を置ける」を意図する。

それは叶う・叶わないではなく、「そういう未来が当然でしょ」という信念、ってことかな。

 

実践をリアルをお届けしています笑

 

トランサーフィン15日目 「私の目的は、私」と「私は運のいい女だ」

 

 


前回からのテーマ“自分への愛”

 


私は自分の身体を愛そう!と気づいたところですが、

 


今日は「あなたが愛に悩み苦しんでいるなら」のお話。

 


結論はもちろん

【自分自身を愛することから始めてください】

ですけどね。


世界は鏡。

自分の内に愛がなければ、外からも愛は返ってきません。まずは自分を大切に扱い、愛をもって世界に接してみましょう。

あなたが一歩を踏み出せば、世界はきっとその愛を映し返してくれるはず。


わたしがおもしろいなあと思ったのは

“フィードバックの連鎖”です。

あなたが世界に愛を送る→
世界の鏡に愛が反射する→
世界があなたに愛を繰り返してくる→
あなたは愛される→
あなたは満足感を得て自分のことが好きになる

 

 

 

これは…フィードバック?連鎖?

 

 

 

日常生活の中で小さな善行を積むことで、広い意味で自分や周囲の幸福を生み出すという考えを持つ人は少なくありませんが…

 


「情けは人のためならず」という諺もありますし。

 


「因果応報」って言葉も、悪い意味に使われることが多いですが、善い行いが巡り巡って善い結果として自分に戻ってくるという仏教の基本的な教え。

 


日本に根付いた考え方に戻るの、伏線回収みたいで楽しいですね。

 

 

 

やや逸れましたが、

 


最初の1歩を踏み出せば、鏡の反射から結果につながる流れをおさらい。

 

 

 

私が世界に愛を送る


世界の鏡に私の愛が反射する


世界が私に愛を繰り返してくる


私は愛に包まれる


私は満足感でいっぱいになり

自分のことが好きになる。

 

 

 

鏡、上手に使えるようになりたいな。

 

 

 

話は変わりますが、今日はとある病院へ。

自然に治るといいなと様子を見ていたもののなかなか症状がよくならないので、

ネットで調べてるうちに

何かウィルス系の病気か、悪化したら取り返しのつかない病気かもしれないと怖くなり…

 


ここで台本を…と思って

「なんでもない未来」とか「ああよかった」も設定してみるものの

症状がある、受診する、という身体的な状態があるので、感情を継続するのってけっこう難しい。

 

 

 

そこで、今回私がやったのは!

 

 

 

 


呪文!!

アファメーションともいいます)

 

 

 

 

 

 

 


「私は運のいい女だ」

あはは。

運がいいんです私。

 

 


結果としては、

私が想定していたよりも軽い炎症で

それも治りかけでした笑

2-3日で良くなりそうです。


“私は運がいい女だ”って思えると、世界の鏡もそう映してくれるのかもしれませんね。

 

 

トランサーフィン14日目『自分を愛する力』と手放すべき重要性

 

今日は
「まずは自分を受け入れ、愛することのお話」です。

 


振り子は「他人のように社会的に行動しなさい」と仕向けてきます。これに気づき、自分自身と向き合い、「このままでいい」と思えることが、自信と自己肯定の土台です。


“自分の価値”を正しく見つめ直し、
欠点を含めて自分を認め、長所に目を向けることで、本来の自分らしさが輝き始めます。

 

 

「外的重要性」と「内的重要性」は表面的には異なりますが、「自分を他人の基準で測る」という点では根っこは同じ。


外的重要性は
「周囲がすごい。正しい。特別だ。」と思いすぎること。
→ 自分の外にあるものを大きく評価し、あがめてしまうことに。


内的重要性
「自分が劣っているから努力しなきゃ!認められなきゃ!」という思い込み。
→ 自分を他人と比べ、自己否定に。


どちらも「他人の基準」で自分を評価していて、結果、自分の価値を見失ってしまってます。

この2つを手放して、本来の自分らしさで生きることが自分を愛することなんですね。

 

 

 

「自灯明 法灯明」というお釈迦さまの最後の言葉を聞いたことはありませんか?

自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他をたよりとしてはならない。法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。

これは、外的重要性や内的重要性に振り回されるなという教えに近いですよね。

法というのは仏様の教えなので、外的とも言えますが、自分の内側にある源の存在と考えてもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

こちらのブログ投稿、1週間ほど間が空いてしまいました。

皆様いかがお過ごしでしょうか。

私、体調が…あちこちなんだか変だったんで、ゴロゴロしてました笑

 

新月であったり、秋分の日であったり、エネルギーが転換するポイントだったので、そういうものの影響も受けやすいタイミングだったかもしれません。

 

それとともにやはり肉体を持ってこの地球にいるわけですから、“肉体を大切にする、ともに生きる”ためのメンテナンスは必要です。

 


まずはこの体に「ありがとね」。

 


体調の悪い自分は嫌だと思っているうちは自分のこと大切にできてるとは言えないのかもしれません。

 


どうしたものかと思い悩んで瞑想したりしてたんですけど、

 


今日のレッスンのところを読んでみて、自分を愛するって言うことを忘れてなかったかなと振り返りました。

(私はお医者さんもワクチンも否定してません。すぐに病院行くタイプです!)

 

 

トランサーフィンでは「重要性を下げること」が繰り返し出てきますが、これも自分の内側に対しても、必要以上に重要視しすぎてるってことですよね。

 

「自分を愛する力」というのは、ただ甘やかすことでも、完璧にしようと肩に力を入れることでもなくて。

淡々と「自分を受け入れる」ことなんだろうな。

 

肩の力を抜いたときに、自然と愛がある状態になるのかも。

 

体調悪い私も私。愛していこう。

トランサーフィン13日目「魂の魅力」と実験レポート


《魅力的な人物は秘密を持っている》

 


魅力的な人物は、自分の魂に喜びを感じ、人生を楽しみ、自分への愛に満ちている。

 

 

私たちが思う“魅力的な人”って、実は特別なことをしているわけではなく

自分を愛して、自分の好きなことをしているときは、自分の魂と一致している生活をしているから、魅力的な人物に見えるし、そこに人は集まってくるということ。

 


そんなに難しいことでもないような気がします。

 


ここで実験です。

 


先日私は出かける前に、しっかりと「気づきの中心点」を意識してみました。

 


公的な場所でベテランお姉様方ととある勉強会。忘れている時間がほとんどでしたが、途中で1度だけ「自分の中に源がある」と言う意識を持ってみました。

 


意見を言うたびに何故か皆様に褒めちぎられ、ちょっと怖いくらい。

これは自分が魅力的な人であると言う設定をしたのが勝因ではないかとしっかり感じました。

 


みんなの役に立つ意見を言おうとか、無難にまとめようなんて思うと、確実に振り子にやられます。

逆に、自由なエネルギーに満ちている方が魂と理性が一致しやすく、周りの人に魅力的だと映るのかもしれませんね。

 

明日出かけるとき、ぜひ“私は魅力的な人だ”と設定してみてください。周りの反応がちょっと変わるかもしれません。

 

トランサーフィン12日目「バランス」と

「頑張るぞ!」と意気込むほど、なぜか空回りしてしまったり、思うような結果につながらないことってありますよね。

 

周囲の世界とのバランスが取れているときには、人生はスムーズで快適なものになる。

 


逆に困難な状況になると、その状況を打開することに対して必死になってしまって、

いわゆる外的要因に対して過剰ポテンシャルが発動してしまっていることになります。

 

そういう時は自分がどこに執着し何を重要視しすぎているのかを見直すといい。


昨日までの話で言うと「手放すこと」が必要になります。


今日のテーマは「バランス」。


たとえば、何かに対して強い執着や重要性(=過剰なエネルギー)を持つと、自然なバランスは崩れますよね。
すると、そのバランスを元に戻そうとするチカラで意図したものではない結果が生まれてしまうのです。

簡単に言えば何かに「重すぎる意味」を持たせると、かえってその実現が難しくなる。それ、よく知ってます。肩にチカラ入って固くなるヤツです。

だから重要性を手放す!


振り子に飲まれて強い感情を持ちすぎると、それが平衡力(=自然がバランスを取り戻そうとする作用)を引き起こす原因になります。

 


つまり、振り子と平衡力は連動して働く。

 


例えば就職試験に落ちたとします。


「一流企業に入ることこそ成功」という社会の価値観(振り子)に巻き込まれ、「絶対に受からなければ」と思い詰めてしまう。


「絶対に」と強く願いすぎたことで、過剰な重要性(=過剰ポテンシャル)が生まれる。


平衡力がバランスを取ろうとして、試験に緊張で実力が出せない、体調を崩すなど失敗するような出来事を引き起こす。


振り子は、バランスを取ることに関心はなく、むしろ人の感情エネルギーを利用して自分を維持・拡大しようとする存在です。

どちらかに過剰に傾くとバランスが崩れ、苦しみが生じるという、今回語られていることは、仏教が古来から説いてきた「執着を手放し、自然体で生きる」教えと本質的にとても近いですね。

 


大事なのは、世界をありのままに受け入れる。

 

 

昔の私は緊張ばかりで…

今はこうした学びで“バランス”を思い出すことで少しずつ楽になっています。

早く知りたかった気もしますが笑、結局は「今気づけたこと」こそがちょうどいいタイミングなのかもしれませんね。

 

トランサーフィン11日目「自信」と手放す力

今日のテーマは自信。


「目標を絶対に達成しなければならない」と思えば思うほど、不安が増し、エネルギーを奪います。いわゆる“りきむ”状態とも言えますね。無駄にチカラが入っちゃうと、碌なことない。

 


“そこから抜け出すには、戦うこと自体をやめること。”というわけです。


物事の重要性を手放すと、迷路の壁が崩れ落ちる。重要性を手放せば、重要性に振り回される事は無い。

 


となると上手に手放す方法知りたいですよね。

 


「完璧なコーディネーションとは、魂と理性が調和していること」

ただ1点これを目指すだけなんです。

 


そうだ!また振り子にやられてる!!と

過剰ポテンシャルに気がついてしまえばいいのね?

 

 

 


以前私は疑問を持っていました。

「自分には価値があると思うこと」と「物事の重要性を手放すこと」に矛盾は生じないのか。


でも“魂と理性が一致している”気づきの中心点で見てみると「物事」に重要性は求めなくなるもの。

 


振り子の仕業を視点を上げてみることで解決する。

 

 

つまり!矛盾はない!!!

私のトランサーフィンの理解も深まっているようです。

 

 

 


これは以前note に書いたものですが、


仏教に無我(アナッタ)という教えがあります。
「自分」という固定した価値や定義に執着しないと自分を証明しようとする必要がなくなり自然体で生きられるという教えです。

• 無我(むが):日本語の仏教用語
• アナッタ(anattā):パーリ語原始仏教で使われていた言語)。
サンスクリット語では「アナートマン(anātman)」。

どれも意味は同じで、「固定された“自分”という実体は存在しない」という仏教の根本教義のひとつです。

「無我(アナッタ)」と書いてあるのは、「無我=アナッタ」という意味の説明なんですけど、

「無我(anattā)=“自己は存在しない”」という教えなのに、その言葉が「アナッタ(anattā)=あなた」みたいに聞こえるの、ちょっと面白い。

実際の語源的には、
「アナッタ(anattā)」はパーリ語
an(無い) + attā(自己)
→ 「自己がない」という意味です。


「無」+「我」と同じですね。

 


でも日本語で聞くと、音が「あなた」に似ているから、「自己がない」という教えに、

まるで「あなた(わたし)」を指されているよう…

日本語ってほんとおもしろい。