トランサーフィン第3日目「神の子」と必然に気づく力

 

今日のサブタイトルは「神の子」です。

 


「私たちは一人ひとりの中に神のかけらを宿し、源と常につながっている存在である」

スピリチュアルを学び始めた頃、この考え方を初めて知ったとき、とても腑に落ちました。

私たちの人生は魂が成長するために選んだストーリーであり、それは神が創造主として書いたもの。

そう思うと「今の出来事もすべて意味があるのかもしれない」と感じます。

 


本の中には「神はただ望むものを手に入れるだけだから、必死に追い求めてはいけない」とありました。

願いをがむしゃらに掴みに行くよりも、ただ「気づきの中心点」に立ち返るだけで、本来のゴール以上のところに運ばれていく。昨日の内容につながります。

 

 

そういえば、スーパーでレジに長蛇の列ができていても、あまりイライラしないことにしています。

「新人さんかな?誰でも新米の時代はあるしね」

「おっと、このラグがあったから買い忘れを思い出せた」

「レジの人の丁寧な接客、すてきだわ〜学びがあるなあ」

…なんて具合に。

 


それから、電車を一本乗り遅れたこともありました。

「ああ、遅れちゃった…」と思ったのも束の間、ホームで昔の友人にばったり再会。

これ、私よくあるんですよね。

 


起こる出来事は、やっぱり全部必然なのかもしれません。

 

 

これはタフティのアドバンテージメソッドに近い感覚です。

一見ネガティブに感じる状況でも、そこにプラスの要素を見つける。

そうやって「困った出来事=実はギフト」だと気づくことで、少しずつ流れに乗る習慣へと変わっていくのかもしれません。

 


人生の真の目的は「神に仕える」というより、「神と一緒に創造していくこと」なんだそうです。

だからこそ、自分のゴールを思い描くことも、神と共に新しい物語を書いていくことにつながるのだと思います。

 

 


しょっぱい日常も、実は神の味付けかもしれないですよね。

そう思うと、今日のちょっとした出来事も、全部「必然」なんだなって思えてきます。

さて、今日はどんな“味付け”があるんでしょう。

 

 

トランサーフィン第2日目「夢の乗っ取り」とシンプルに気づく力

 

1日目に「目覚めた」ので、2日目の今日は

「現実は自分に押し付けられたゲームであり、それをコントロールする能力が自分にはある」

と気づくことがテーマ。

 


タフティー・ザ・プリーステス風に言えば、「用意された台本を生きている」ってことになるでしょうか。

 


そこで大事なのは、出来事をそのまま観察すること。

たとえば、

 


“この瞬間、私は目覚めている。

自分がどこにいて、何が起きていて、何をしていて、なぜそれをしているのかをわかっている。”

 


と自分に言い聞かせること。

ここまで来ると、タフティでいう「気づきの中心点」に立てている感じですね。

 


日常の中では、誰かに無愛想にされたときに「嫌われたに違いない」と思い込んだり、

うまくいかないことがあると「自分には価値がない」と決めつけたりしがちです。

でも実際にはただ「無愛想だった」「思ったような結果じゃなかった」という事実があるだけ。

それ以上の意味づけは、自分の心が勝手に付け足しているんですよね。

 

たとえばSNSを見ていて、推しに関するコメントで「なんでそんな解釈するの?」とモヤっとすることがあります。

でもよくよく見れば、それはただ「そういうコメントがあった」という事実があるだけ。

そこに「攻撃された」とか「気分が下がる」と意味づけているのは自分自身。

気づきの中心点に立つと、その違いがよく見えてきます。

 


2日目の実践ポイントは、

「自分はゲームの中にいるけれど、同時に離れた場所からそのゲームを意識的に眺める」こと。

 


タフティと重ねて考えると、やっぱり「気づきの中心点」にいること。

そこに立つとエネルギーの流れが変わるんです。

 


お盆の頃に書いた日記にも、


「心が整っていて、気づきの中心点にいるだけで、設定したゴールよりも上の着地点に行くことがある」


と書きましたが、まさにこのこと。

心さえ整っていれば、ただ「気づきの中心点」にいるだけで、

本来のゴールよりもさらに望む以上の着地点に運ばれることさえある。

 


もうつまり、物事って本当にシンプルなんですよね。

ただ気づくだけ。

 

 

 

 


余談ですが。

最近、お誘いいただいた食事会があって。

「行ったほうがいいのかな?」とぐるぐる考えてしまいました。

瞑想中にまで答えを探そうとしてしまってて「これはNGなやつだな〜」と苦笑い。

 

だって気づきって、思考でひねり出すものじゃないもんね。

ふってくるもの。

そう、思考じゃないのよ気づきは〜はは〜

 

 

 

トランサーフィン第1日目「目覚め」と日本の風景

今日は『トランサーフィン実践マニュアル』1日目「目覚め」を取り上げてみたいと思います。

 

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人間は本来、世界のエネルギーを操ることができる存在だったのに、いつの間にか現実にコントロールされてしまっている。

「目を覚ましてください。忘れていたエネルギーを動かしましょう。」

これが1日目のメッセージです。

 


タフティ風に言えば「さあ、目覚めなさい!」ですね。

 


私は最近、「本来、人は神の分霊(わけみたま)であり、自然と一体である」という感覚を思い出す人が増えているように思います。

宗教やスピリチュアル、自己啓発に触れていなくても、言葉ではなく感覚として「自分の中の神様」「内なる対話」を通じて運命を切り開くことに気づいている人は少なくないのではないでしょうか。

 


もともと日本人には「八百万神(やおよろずのかみ)」の思想が根づいています。

自然をインスピレーションとして受け取ることは、ごく自然なことなのかもしれません。


「目覚めようね」と言うのは、実はそんなに難しいことではない気がします。

 

ちなみに、神社は全国にたくさんあります。

2022年末時点で宗教法人として登録されている神社は約8万800社。

登録されていない小さな神社や祠(ほこら)まで含めたら、一体どれほどあるのでしょう。

 


神社は土地を守る場所であり、同時に自分と向き合う場所でもあります。

御神体の「カガミ」は、真ん中の「ガ(我)」が抜けると「カミ(神)」になる…

そんな言葉を聞いたことがあります。

 

例えば、先日の日記に書きましたが、伊勢神宮はこの夏とてもたくさんの人で賑わっていました。たくさんの人でごった返す初詣もですが、

一人ひとりが“自分と神”のつながりを確かめに来ているとも言えるのかも、、、

 

 

 


そういえばタフティー・ザ・プリーステスの始まりも

「あなた自身は、自分が何者であるかを知っていますか?」

という問いかけからでしたね。

 


忙しさや悩みにとらわれていると、ついその感覚から分離してしまうけど

本当はとてもシンプルです。

自分に話しかけてみる。自分の感覚に全振りする。

 

 

ちょっと怖いけど多分間違ってないって、実ははじめからわかっているのでは?╰(*´︶`*)╯

 

 

 

※この記事は、以前noteに書いた文章を修正・加筆したものです。過去記事はこちら

 

最近の私と瞑想のこと


最近は「瞑想」という情報ばかりが入ってきています。

こんにちは。

 


自己啓発系からスピリチュアルを経て、タフティやトランサーフィンにたどり着いた私ですが、結局のところ自分で出した答えはとてもシンプルです。

 


地に足をつけること
源とつながっていることを忘れないこと
今を生きること

 

 


この3点に尽きるのだと思っています。

 


そして今の私にとって一番大切なのは、「気づきの中心に意識を置き、源とつながって、少し高い位置から今を見つめる」こと。

私はスマホ依存ですし、知りたがりですし、情報も星の数ほど入ってくるので(笑)、なかなか脳を休めるのが難しいタイプです。

 


そんな私が今日出会った言葉

「24時間瞑想状態であれ」(は?)

 

これを自分に置き換えると、「24時間、気づきの中心にとどまり、内なる源とともにある」という生き方なのでしょう。

 


「難しい」と決めてしまうと続きませんが、

少なくとも集中しているときは自然と瞑想状態になれますよね。

無心でできること、簡単なところでは草むしりや洗濯物をたたむこと。

 

最近の私、実はお皿に絵を描くことに夢中になっています。

 


きっかけは「どうしても作品をひとつ作らなければならない」という事情からでした。

 

前からやってみたいと思っていたので、100円ショップで白いお皿を買い、らくやきマーカーや絵の具を使って下絵をなぞり、色を塗っていく…。

オーブンで焼き上げて出来上がりです。

とても単純で簡単ですが、これが楽しいんです。

今のところはお花の絵を描いています。

人に見せられるくらいになったら、ここでもお知らせしますね。

 

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以前は写経もしていました。

しかし般若心経を書いていると、途中で眠ってしまうのです。気絶するように意識が落ちて、10〜15分ほど眠ってしまう。人に話すと驚かれるのですが・・・。

これはこれで浄化されているのでしょうか。

(まだ顔に墨がついていたことはありませんが、けっこう危険ですよね笑)

 


スタンダードな瞑想について言えば、暑さのせいで歩行瞑想(お散歩)はお休み中。

最近はもっぱら呼吸瞑想。

「吐いて、吸って、吐いて…」を繰り返すだけですが、体がふわっとふくらんで、しゅーっとしぼむのを想像するといいのです。

イメージとしては、星のカービィポケモンカビゴンがすぴすぴ寝ているときの感じ?かわいいでしょ?

 

 

 


さて次回そろそろ『トランサーフィン実践マニュアル』に入っていきますね!

 

 

お盆のお参りと今を生きる言葉

お盆は夫の両親が納骨されている大きなお寺へ、家族でお参りに行ってきました。こちらのお寺には永代供養もお願いしており、さらに私の母方の親族も皆こちらに納められています。

私にとっては幼い頃からご縁の深い場所です。

 


お盆ということもあり、本堂にはぎっしりとたくさんの方が参列されていました。本堂は450畳もあり天井も高いので、もちろん冷房などはありません。

30分ほどご住職のお経を聞いていましたが、とても暑い…。

ところが不思議と、ときどきふわっと涼しい風が入ってくるのです。

お寺の造りなのか、それともご先祖様のはからいなのかしら。

 


受付でいただいたリーフレットの表紙に、こんな言葉が書かれていました。


今を生きずに いつを生きる

ここを生きずに どこを生きる

大神信章

 


この言葉を目にしたとき、まるでご先祖様からのメッセージのように感じました。

 


「今を生きる」というフレーズは、仏教だけではなくスピリチュアルの界隈でもよく語られていますが、この文章の表現はより深く胸に迫るものがありました。

 


大神信章氏は、浄土真宗本願寺派 光林寺のご住職だったそうです。検索してみると、次のような言葉も紹介されていました。

 


いい人

いい雨

いい天気

みんな私中心

 


「いい人」かどうかも、「いい雨」かどうかも、「いい天気」かどうかも、すべて自分の都合で決めているだけ。

 

同じ現象が起きても、それをどう受け止めるかで見える景色は変わります。


大げさに「どうしたら良い結果に導けるか」とアドバンテージを探さなくても、

むしろ

 

“嫌な人

嫌な雨

嫌な天気

みんな私の身勝手&エゴ”

でもあるのです。

この思考に気づくだけで、現実は自然と変わっていく。

 


今回のお参りはそんなシンプルな気づきをいただいたように思います。

 

 

伊勢神宮参拝 2025年夏

夫のお盆休みの期間に入り、8月11日に伊勢神宮へ参拝してまいりました。

 

伊勢神宮はいつ訪れても空気が澄んでいて、どこかピリッとした静寂の中に神々の息吹を感じます。鳥居を前にすると、自然と背筋が伸びる場所です。

 

 

まずは外宮から。


外宮は「地に足の着いたエネルギーを感じられる場所」とされています。

私自身もいつもおおらかさを感じるのですが、今回はさらに「実家感」というか、「おかえり〜」と迎えてもらっているような雰囲気がありました。

 

そういえば外宮の参道で本宮から風宮に向かって歩いている途中、私と息子の目の前につつつ〜と白い蜘蛛が降りてきました。

普段、蜘蛛は得意ではありませんけど、神聖なメッセージのような気がして、地面にたどり着くまで見守りました。

ネット上の情報だと、幸運を招く象徴らしく、幸運が訪れたり、問題解決の暗示らしいので、そうならいいな…

 

 

 


そこから内宮へ。

この日の内宮は、いつもと少し違った表情でした。

荘厳さや静寂というより、どこかのんびりと穏やかで、快活に笑っておられるような空気感。

 


伊勢神宮にもこんな時があるんだ」と、なんだか心が和らぎました。

夏という季節や、休暇中の賑わい、若い参拝者の多さも影響しているのかもしれません。

 

 

 

鳥居をくぐる時にキャップをサッと脱ぐ金髪の若者の姿。

おはらい町やおかげ横丁で、老若男女が楽しそうに舌鼓を打つ様子。

 


そんな光景を見ながら、伊勢神宮にこれだけ多くの日本人が集まることが、とても嬉しく感じられました。日本は大丈夫。

 

 

 

やっぱり、お伊勢さんは年に一度くらいは参拝したい場所。

その思いを新たにした一日でした。

 


今回は五十鈴川カフェさんでコーヒーをいただきました。とても美味しく、五十鈴川の流れをゆっくり味わう時間になりました。

 

 

 

 

伊勢神宮に参拝すること自体が、私にとっては大きな「整え」だと思っています。

心も体も自然に澄んでいくような、そんな感覚をいただいた時間でした。

 

 

 

憂鬱なイベントのその後

以前の記事で「雨で中止になる未来?それとも楽しい思い出になる未来?」と書いたイベント。

結果は、

やっぱり雨で中止になりました。

 


けれど、そこに至るまでがちょっと面白かったのです。

 

 

私は2年近く足を痛めています。激しい動きはできないことを最初から伝えてありました。

そのため「衣装は着ない」という約束で参加するはずでした。

 


ところが直前になって「やっぱり衣装を着てほしい」と言われたんです。

「でも衣装を着たら、いつも以上に動けませんよ」とお伝えしたところ、「座っているだけでいいから」と。

 


そこで、想定外の「衣装を着て参加する」という未来が立ち上がりました。

これは私の意思ではなく、スタッフであることをわかりやすくするための、周囲の配慮でした。

 

 

そのとき、「世界線が動いた?」と感じました。

最初のシナリオにはなかった衣装を着る未来。

けれど最終的には雨で中止に。

これは、私の最初からの「台本」どおり。

 


結果として「衣装を着ないで中止」ではなく、「衣装を着て準備したけれど中止」という少しずれた未来を通過して、結末は同じ「中止」に戻ってきたわけです。

 


この流れ。

「えっ、話が違うじゃない!」と振り子に反応してしまえば、心はざわつきます。

でも私はただ「世界線がずれた」と眺めることを選びました。

私は気づきの中心点に意識を置き、振り子に巻き込まれないようにしていました。

すると「なるほど、そう来たか」と自然に受け止められたんです。

 

 

自分の意思でなく、他者によって世界線が変わる。

でも最終的には、自分が最初に描いた台本へと収束していく。

 


この出来事は、「一度シーンが書き換わったのに、結末は予定どおり」という不思議な体験でした。

 

流れを冷静に観察できると、心は振り回されないという実験ができました。

 

 

 

次回

このお盆には伊勢神宮に行ってまいりました。

その体験から得たことも、また次の記事で書いてみようと思います。